加藤祥子です。
同じ6月といううこともあり、「6.16新潟地震」:地震規模はM7.5(Mw7.6)を、思いだしました。
当時、私は高校3年生で、校舎の3階の教室で、やがて始まる英語の授業を待っていました。
突然、教室が揺れだして、あわてて机の下に隠れましたが、その時、窓から近くの木造の建物が左右にユサユサと揺れているのを茫然と見ていました。
その後、校庭に集合してから家に帰ったように思います。
まったく記憶に在りませんが、学校町、東中通り、西堀通り、東堀通りを通って本町の我家にたどり着いたと思います。
我が家の建物は右側に、小路を隔てたお隣は左側にと、寄り添うように、若干傾いていました・・・・・・・。
地震から約5時間後に、空港と港の間にあるガソリン入りタンクが爆発し、12日間に渡って炎上し続けました。
その間、夜になっても空が赤くて、怖かった事を覚えています。
市内に嫁いでいた2人の姉一家が避難してきて、0歳児の甥と姪が同居することになりました。
電気、ガス、水道は止まり、昼間は町内を回ってくる給水車に水をもらいにならびました。
当時は、紙パンツなどなく、布のオムツでしたので、母は、毎朝信濃川まで、孫のオムツの洗濯に行っていました。
この時、テレビのカラー放送開始から4年後で、カラーテレビが普及しはじめた時期でした。
名古屋在住の姉の夫のお兄さんが、テレビで新潟の惨状をご覧になって、大きなリュックに沢山の食料を詰めてお見舞いに来て下さいました。
今から54年前の事ですが、あらためて、テレビ報道は素晴らしい、大きな役割を担っているのだと、思いました。
(有)アーキベース一建築士事務所
新潟市の不動産土地情報・建築設計事務所
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